そんなワカメは明日の海に沈む

2009
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#17
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潜水服は蝶の夢を見るって映画です。一時期けっこう有名になったんで、知っている人も多い映画だと思います。
シアタで見ることができなくって、いまさらになってDVDで借りた感じなんですが、これはやっぱりシアタで見たかったです。というか、DVD欲しくなりました。


僕はこの映画を形容するにはあまりにも持ち物が足りない。完全にそう痛感しました。
すべてのシーンにおける空気が完全に計算され尽くしてます。まさに蝶の入る隙さえない感じです。そうですね、潜水服です。私が評を突き挟む隙間はもちろんありません。

斜交いに見ることができない映画は素晴らしい映画の証だと自分の中で思っています。なまなましくも創造に満ちあふれる感動が、構成がどうとか、音楽による影響がどうだとか、そういったストラクチュラルなことをさっぱり洗い流してしまいます。というかどうでもよくしてしまいます。
波打ち際で砂に描いていた海の絵を、海の波に奇麗さっぱり洗い流された感じです。悔しくもその状況に納得をせざるをえない。それは抗えないものへの畏怖に似ています。

極まった美しさや素晴らしさをもたらすものは、恐ろしい。呑まれないようにこらえるのでやっとです。それを体験することはある種の興奮であり、何ものかへの信心です。

私は未だそのような威光に近づく手段も、もちろんそれを生み出す方法も知りません。
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#16
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今日は、信じられないくらい暖かい日でしたね。そんな日って何にちもあると心配になっちゃいますが、たまにだったらすごいいいです。なんだか外にいると贅沢をしている気分になりました。
こんな日に、自分のテンションもあがってると、いいアイデアがでそうでわくわくします。
今日は学校の屋上階で、ピアニカをピロピロ吹きながらいいアイデアがでてくるのを待ちました。
結果的にあんま思い浮かばなかったけど(笑)最高の気分でした☆

あ、ピアニカはつい最近のマイブームです。「音符と昆布」で吹いていたのを見ていてすごい吹きたくなって、何か目覚めた感じで弟から100円で譲り受けました♪かんなりいい音してます。この音色は小学生にはまだ早い。




まあでもテストとか公募の締め切りとかそろそろいろんなモノの期限が迫ってます。何も考えてないです。
来週は、焦らずなまけず楽しく、本腰を入れてやってきたいとおもっています。
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#15
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音符と昆布

”音符と昆布”という映画の話です。昆布・・・・が、わかめの仲間だからってのじゃないけど、ツ○ヤで妙に目についちゃったので、借りてみました。池脇千鶴サン(姉)と市川由衣サン(妹)がでてます。なかなかかわいらしいです☆
自分は一人娘だと思っていた妹のところに、突如自閉症の姉が施設を抜け出して転がり込んでくる。んで妹としてはなんかいろいろと大変でイライラするわけなんだけど、だんだんとその姉を好きに好きになってくる・・・ってまあ大筋そんなお話です。
個人的には、大変ツボな感じの映画でした。確かに自閉症を抱える人は、本人、その周囲ともに大変なんだろうなぁということも思ったわけだけど、それより、おかしくて笑ってしまう感じで、一つの映画として素敵な作品でした。ただたまにチープな目線で見ているぶぶんだとかえらくポップしあげなところもちょこちょこあって中途半端にブレた部分もあって、個人的にはもっと勢い良くというのかわりきってやってほしかったですかね。
でもとにかく、お姉さんの行動の一つ一つにおかしみとうらやみを感じてしまった。


突然だけど、僕は普通だと思います。周囲の人が僕を異常だという部分は、いまんところほぼ計算の内を出ていない感じがします。
「普通」といわれることは大嫌いです。それは自分がどう転んでも普通であることを痛いぐらい知っているから。
ただ、どう「異常」であったらいいかわからないのです。それゆえにどうしても計算づくで「普通」の上に「異常」という格好だけ塗り重ねてしまいます。それはどれだけおもしろくないことか。それは、空気をよんだ上に初めて成立するもの。ゆえにしらじらしくてたまらない。でも「異常」を演じる自分以上に好きな自分が見つからないので今はこうして暮らしているわけです。しかも普段は正常な部分を見せつけたい。ご都合主義もいいところです。

つまるところ自分の発想は平凡で、そこにはいまいち空を貫くスカッとした鋭さは存在しない。冷静な判断はそこにあるせっかくの旨味をあらいながして無味乾燥なものばかりつくり出させるわけ。はてはてここで異常とはなんのことやら。正常のアンチは異常ではない。ある意味それは正常並みに正しさを持っている。
とにかく自分が異常だと思うことをするのが異常だろう。もう適当で脈絡がなくてウケることをすればいいんじゃないか?ここでもはやなげやりな自分に気づき、自分の平凡さにまたまた気づく。ショック。


駅のホームで鍵盤ハーモニカをいきなりさっと取り出して全力で吹いてみる。

ブワ~~~~~


自分がしたいことってそんな程度。




自分よ。特異であれ。





もしも、そう願っている時点で異常だと批判してくれるなら甘んじてその言葉をうけましょう。
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#14
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なぜか土曜日、NHK教育の中学生日記を見た。
あ、まだやっているんだな~~~と、そのタイトルの響きに懐かしみを覚えてみてしまったんだけど、なんだか予想外に新鮮だった。

セリフを完全にセリフとして棒読みするうそくさい言葉の中に、何にもかえ難い真実というか、中学生が演じてでしかありえないリアルが詰まっていた。セリフがいかにもセリフだからこそ、そういったものが生きてくる。彼らは、空で読む台本を口にだしながらも確実にそれを真っ向から無視していた。彼ら自身そのものが画面いっぱい占領して、あんなセリフじゃあ到底それを押さえきることはできないという感じだった。中学生ってこの世のすべてに対する懐疑、社会のみならず自己さえも省みる対象であることを悟り、その重圧に耐える年だ。そりゃすごい迫力だよ。

内容は、図書館のカウンタをする陰気なコと、よく図書館にいりびたるごく普通の女のコとが友達になっていく話なんだけども、僕はその陰気なコのことがうらやましくてしょうがなかった。
彼女は普通の女の子みたいに群れるのも好きではないし、妄想の世界にいるほうがなによりも楽しくて、いつも現実を肴にして妄想をふくらます。なんて贅沢なことであろう。最も多感な中学生時代をはばかりなくそのようにすごせたらどんなにすばらしかったことだろう。僕が周囲にとけ込むことや、エッチなことや、他人がウケるネタのこと、好かれる方法ばかり考えていたあの時に、もっと素直に自分の中にとけ込めたらどれだけすばらしかったことだろうか。そう思ってしまった。
僕はあのころ、ストーリに出てくるような陰気な図書委員とかがきらいだったし、そんな人とつるんでいると思われたくもなかったから、そういう友人もいなかった。陰気だとイジメられるしガリ勉とかみたいに思われるし、なによりマジメに見られてかっこわるい。自分のしたいことはなんとなく知っていたけど、やっぱりそれをすることは怖くてできなかった。だから、やはりそういった自分の中にこころおきなく入って行ける人達を勇気があってうらやましいと思っていた部分があったとも記憶している。そういう姿の方が自分をもっと楽にさせるだろうし、充実感に溢れるであろうことも知っていた。

この年になってやっと自己を解放して、自分の律動に素直に乗じることを少しずつ実践できるようになってきた。
だけど、そうなるとあの頃の自分が愚かしくてたまらない。確かに今の自分を悪くはおもっていない。だからあの頃の自分が間違いだったとは思っていないけど、いい時期にとても惜しいことをしたとは思っている。

まあ「もし」はないから仮定の過去を話しても仕方ない。
まだ21でよかったと思っています。
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#13
また、もし、と来たので、このままつらつらと文章にしてしまいましょうかねえ。と思っています。あ、これからの作品展示でのタイトルの話です☆

タイトルってちょっと悩むところですね。作品のタイトルっていつも締め切りとか時間の関係とかであせって決めてしまって、結局いつも大した意味のないタイトルになってしまいます。

だいたい「タイトル」というものの存在そのものが怪しいというかようわからないものなのですよ。作品に自分でタイトルをつける度に、自分でつけておいて作品とそのタイトルとの因果関係がよくわからないというか、そのタイトルであるという実感がまったくわかない。
作品にもし、一本筋のごとき明確なコンセプトやモチフがあったなら、それをそのままタイトルにしやすいけど、そういうわかりやすいことはあまりしない。
だから、自分の作品は無題であったほうが、テキトーなタイトルで汚されることなくよりその作品の純度があがって自分の中でもっと高い価値を確立できるんじゃないかとも思う。
っということでいつもタイトルについては自分のなかで一悶着ある。

でも、自分の作品をタイトルで呼んでくれる人がいたりすると、やっぱりタイトルがあってよかったな、とうれしく思う。あたりまえやけど(笑)
同時に、やっぱりタイトルは作品の為ではなく、それを見る人の為にしか存在しないわけやね。というまたまた当たり前なことに気づくわけですよ。作品を指し示す、アイコン的な役割、作品を簡単な単語に集約してポータブルにする為以外のなにものでもないわけ。

デザインとかそんな感じだけど、世の中名前の響きとかゴロが良い名前のものはそれ故に売れやすかったりするし、みんなが覚えられるしみんなが興味をもってくれるし、口コミで広まりやすかったりする。そう考えると、自分が作ったものは「アート」だと位置づけているのにそのわりに、鑑賞者に媚びているのではないか?もっとも作品はその作品自身の為にあり、この世界の中で孤高 であるべきで、もっと純然たるものであるべきではないか?見る人に後々覚えてもらおうなどとやましい事を考えてはならないのではないか?と漠然とおもっちゃったりする。
「タイトルも作品の内だ!!」と言われてしまえばごもっともだと言えるが、そうした場合「”タイトルを付与する”という”形式”」に捕らわれてしまっているだけなのではないかと反発したりもする。
まあだいたいアートがアートの為にある純粋な時代は終わってしまったわけだからそんな古臭いことを言っていても仕方ないのだけど、考えだすとキリがないわけですね~~。
 でも詰まるところ、おそらく僕はタイトルがもたらす恩恵を拒否するほどピュアにはなれない。タイトルがあるからこそその作品に興味をもつ人もいるし、作品を見た人はその作品をそれに乗せて他人に伝えやすい。他者と関わっている以上、コミュニケーションは正確に行われるべきで、コミュニケーションがなされる場では名を持たないものだったり形容しにくいものだったりするものは省かれざるをえない。少なくとも作品を発表している以上は、「他者」となんらかの形でコミュニケーションをとることを画策しているのだから、やっぱりつかみやすい糸口を持ったものであるべきだ。その糸口として、タイトルはとても適したものであろう。よってタイトルは必要だ。(笑)

っというところで今はおさめてます。いつかもっとじっくり考えたいと思います。


で、つまり最終結論としては、タイトルと作品の因果関係を無視したところで、いまのところぼくにはなんの問題もない。だったらわかりやすいタイトルをつけられればそれで満足だ。まあ、「また」、「もし」と文が始まりそうな感じで続いて来てるから続きをどんどん考えてタイトルにしていったらおもしろいんじゃないか・・・・
っていう単純思考でいこうかなっと思っています。

何か間違っているだろうか・・うん。きっと間違っているだろう・・・・・いや、間違いだらけの人生だ。人生全体を通したらこんな間違いは些細なものではないか(笑)
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#12
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最近・・・・・寒すぎますねえ・・・・・
確かに去年とほぼおんなじ格好をしているはずなんですが・・・・たえられませんねぇ~~~~~笑
とにかく風邪連発とかインフルエンザとかだけにはなりたくないです・・・
おかげで今年からは一限の授業にはじめからでた記憶がありません。いきたくないわけじゃないんですが、ほぼ物理的に行くのが無理ってことにしてます。

寒すぎると粘土も凍ってこうなっちゃうんんですね~~~はっきりいって相当気持ち悪いです・・・なんかイソギンチャクとかの海洋生物みたいな感じです 笑
でも乾燥させたりとかしてもなかなかこんな表層にはならないんで、まあこれも「氷の芸術」ってことでしょうかねえ




給料日を過ぎたのでお金をおろしにいったら10日近く働いたはずなのに3日分しか入ってませんでした・・・・どうくらせっちゅうんじゃ~~!!!!
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#11
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知り合いというか僕の高校のころの美術の先生が、昨日から2月の8日まで栄のギャラリーmocaというところで展覧会します。いつも寒天を素材にして、シンプルというかミニマルな作品を作る作家さんです。
一昨日、展示前日ということで、設置のお手伝いをしにいったのですが・・・・なんと僕が行く前に作品の上部が崩壊したらしく、えらい小さな寒天の塊になっていました。(w)展示期間は変えられないし、今から足すのは大変だし・・と悩んでいたら、さらに寒天が土台から滑りだす非常事態発生で、もうどうにもならん状況に;
呆然と立ち尽くす二人。ずるずると動きだす寒天の塊・・・悲劇です。

ここで二人が几帳面な性格な性格だったら、おそらく夜通しかけて寒天を煮なおすか、展覧会中止というパターンだったのでしょう。ですが、やっぱりここはB型の二人という感じの選択。彼女はおもむろに横にあった、崩れた寒天のゴミを押し込めた袋を指差して『これ・・・・これにしよっか』と言い出しました。まさかです・・・・確かにその可能性はかんがえていなかったわけではないけど、『その選択でいいのか!!??』と思わずつっこまずにはおれませんw
高いギャラリー代を払って、何週間も考えた作品をそんなのにすり替えていいのか??フ○ヤホームセンターで買ったゴミ袋いっぱいに詰まった床のゴミ付きの汚い寒天・・・
ダダイズムとか初期モダニズムじゃあるまいし、まさかのゴミ袋展示!!いいのか?いいのか?w
でももう時間もない・・ってことで残った寒天もあっさりと解体の後ゴミ袋へ。そしてあとかたずけをしてその日は11時くらいにギャラリーを出て帰路につきました。






傍らでみている僕としては、信じられない程彼女があっさりゴミ袋展示にシフトしてしまったようにしか見えなかったので、正直彼女の作家性を疑いました。ですが、あの人の頭の中では、どうやら至極まともなつながりをもってゴミ袋展示を決行していたようです。しかも、本人曰く寒天の作品を作り始めた当初のコンセプトにより近くなったそうです。
不思議なものです。端からみれば、どう考えてもあきらめの結果としてゴミ袋の展示をしたようにしか見えないのですが、本人は、それほど違和感なくその状態を受け入れているのです。
そういう時っておそらく自分でも意識しないほどに半無意識的に事象が繋がっていて、然るべきタイミングで当然のようにそれが表れるのでしょう。そう考えると、私達の脳は、どのような状況でも、常にその状況に対するパターンを複数用意しているのでしょうか。しかもそれはいつでも過去の情報とつながりをもってそこにある。実行に移されたり、意識に昇るのは最良のパターンだけだが、他のパターンは忘れ去られるわけではなく、ずっとそれが表出しやすいところで並走するようにして続いているのでしょう。それかもしくは単に、ある外部刺激(この場合は作品崩壊とゴミ袋)により、多くの記憶からそれに結びつきやすい記憶が出て来ていて(無意識的に。しかもそれは日常で刺激を受けたときに常に行われる行為)、その内の一つが脈絡のつくものだったがためにそれが選択されたとも考えられます。いや・・どっちともいえない気もします。脳科学はやっぱり茂木さんにききたいです(笑)

よくわからないけど、やっぱり作家のやることは謎に満ちてます 笑

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#10
とりあえず、今のところやろうかと思っている活動予定だけ、忘れんうちにのせておこうかなぁと思います☆イベント系だったり個展だったり、グループ展だったり、けっこうごちゃごちゃした感じです(W)ほんでもってあくまで『予定』です


1月:いまのところなし

2月:20~22日/『卓展』(名古屋市立大学芸術工学部校内
   28日/『あすくりまーと』(あすて

3月:10日~15日/『TAKITA』展(仮)(地下ギャラリー”もぐら”)
   21日/『小牧アートフェスタ』(小牧の商店街
   29日/『ART CONNECTION』(多治見市市民プラザ) 

4月:14~19日/『また』展(名古屋市民ギャラリー矢田

5月:いまのところなし
6月:いまのところなし
7月:いまのところなし

8月:『クレイオブジェコンテスト』(瑞浪)

9月:いまのところなし
10月:『覚王山参道ミュージアム』
11月:いまのところなし
12月:いまのところなし

いまのところこんな感じです。だけど募集要項すらみてないものだとかけっこうあるので、まだやるかやらないかわからないものばっかりです。しかも就職活動ありますし、ちょっと夏ぐらいの予定が入れにくいわけですよw
そんでもってちょっと3月とか過密地域になっているからどうしようかな~~と考えてたりするんでこの表は自分にハッパかける為にあるようなものですw

でもって、他に今年はコンペだったりワークショップへの参加だったり逆にいきなり活動予定入ることなんかもあると思うんで、まさにぼくにとって予定はあってないようなもんです☆

ただ、今年は通年で計画していく最大イベント、『シンマチアートプロジェクト』(仮)の成功がすべてだといっても過言ではありまほん。秋くらいに、最終局面を迎えられるといいと思っています。多治見の市街地でいわゆる「街アート」の部類を計画しているのですが、格好的には「イベント」というより、街が一つの「芸術品」として輝ける形になったらいいなと思っています。あくまで「芸術家」という立場で企画するつもりです。
ですが、まだ現段階では下調べさえまともにしてなければ、協力者、お金、進行、、、、、なにもかも決まっていないし、やりかたさえ分からない。まさにこれ以上ないゼロの状態です(笑)とにかくがんばります!!!不可能率を100からすこしずつ減らしていきます!!
でも、ぜったいあせってやるつもりはありません。『イベント』にしてしまうのだったら何も新しくないし、僕がやるひつようもない。『自分しかできない』という気持ちはいつでも主軸において考えていきます。
進展があったら逐一のせていくし、そのうち単独でページつくります。応援よろしく☆&協力者募集中(w)

あ~~これからの予定をかんがえだすととまらない!!!!!(><;)11月から何もつくらないでも自分の心がポジな感じで来れているのはこのせいです!まさに自分の未来で飯をくってます!!w
いろいろ考えだすとわくわくして楽しくなってきて楽しさが止まらない!!!わくわくしすぎてなにからしたらいいかわからん!!w
やりたいと思っていることを全部なしとげたい☆絶対今年も楽しい一年にしてやります!!

今日神社いっておみくじひいて来たんですが、末吉で、「今年は待ち年」的なことがかいてありました。ちょっと複雑です。でも自分に無理さえさせなければいいかな。と思います。

もともと自分を忙しくするのは嫌いだし、忙しい自分をふりかえってもちっともうれしくならないタイプなんで、そのスタンスは守っていきます。うん。楽しめる程度に頑張るってことですかね~~~~
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#9
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っていう、三島由紀夫の本がありましたね。残念ながら私は一度友達に貸してもらったものの、数ページパラパラしただけで返しちゃいました。要するに読む気がその時なかったというのもあるし、僕には難しくてなんのこっちゃわけが分からなかったわけですwもちょい大人になったら読もうと思っています。
んで、こちらは文学のお話ではなく、実体の仮面作りの写真です☆写真は、制作途中に見えるかもしれませんが、これで完成品です!!!実物を見ても、ぎりぎり仮面と粘土のかたまりの中間にある感じで、しかもべっとべっとしてて気持ち悪いw
もとはと言えば、こんなべっとり粘土になるはずはなかったのです。粘土ほしくて、ちょうど大昔に河合の予備校の時に使っていた水気のない粘土が部屋にあったから、それを水に戻したら・・・こうなりましたwもう泥ですね;
そんなもんだから粘土を乾燥させてからもう一度トライしようと思ってたんですが、待ちきれなくて作り出したら・・・こうなったわけですよ☆w
でも失敗の産物とはいえ、このマチエールともなんとも呼びにくいごつごつべとべとの表面もなかなかおもしろいではないですか☆いかにも土らしさを持ち、素材感満点の仮面じゃないですか!!!!っていうポジな方向でこのまま固めることにしました!

ちなみにこれは、あくまで原型です。これが乾いたら、油粘土でかたどりして、FRPにおこして、塗装して仕上げてかぶろうと思います。楽しみです!!はやくかわけ~~~


あ!!!!!!なんの為に作っているのかというと、ちょっとした素材実験です♪基本、昔から素材やその加工法には興味がなく、それでもって去年から作品発表を始めてしまったという大きな矛盾をかかえているので(w)今年はそれを克服しようかと思っております。
他に、シリコンだとか、木だとか、なるべく身近な素材から試してこうかな~と考えております。

おわり

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#8


ノッティングヒルの恋人のテーマ(?)だからそんなに新しいもんでもありません。
むしろこの人の歌を聴いたのはこれが初めてです。
でもほんとにすてきです。ほんとに。
言葉の末尾がなんだか妙にねちっこく耳に絡み付いてそのまま脳裏に流れ込んでくる。言葉の意味がわからなくたって、ただ一言”she”が聞こえてくるだけで、それは熱いラブソング以外の何ものでもないと感ぜられます。なんとも美しいメロディでありながら、なぜか人間臭い感覚もします。あの話しかけてくるかのような間が、私を彼の近くに呼び寄せるのです。それは物理的な距離の感覚ではなく、むしろ”種”としての同族的な感覚でしょうか。

歌は、音楽でありながら、音楽と一言では言えない側面を持っています。それは、ただそれが音のみでなく意味などを内包しているという理由からではなく、単純に”人”そのものであるというところにあるのでしょうね。というか、そうだと思いたいです。

便利なメディアに囲まれて生活を送っている私達は、様々なすばらしいものを発見したり、よいチャンス、奇怪な知識を知ったりするなど、素晴らしい経験をかつてより多くすることができるようになりました。現に自分だってこの曲をYOUTUBEで初めて聴きました。
ですが、やはり一つのメディアは、どうしても伝えるべき対象の、多くの要素をカットしてしまう。病むを得なくフィルタリングをしてしまいます。そうそう気づかないが、私も、きっとこの曲の多くの良い面を知らずにいる。そう思います。いわゆる”生”の尊重でしょうか。フィルタリングでカットされるものを、然りと考えて見過ごしてはいけません。便利な今、むしろそういったことを、これからはもっと大事にしていかなければならないのでしょう。それはメディアを拒否しているのではありません。むしろ、『メディアの先にあるべきもの』を標榜しています。いわば終着点が常に『生』なものであってほしいのです。それを常に指し示し、実践するのも、アーティストの仕事なのでしょうね。

話がそれたというか、まったく別の話になっちゃいましたw
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#7
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牛の絵は、一応今年の年賀状です。出してから落ち着いてみるとちょっともらった人がかわいそうに思えてきましたw

とうとう2009年がはじまりました!!!正月は、たしかにテレビを見てはごろごろして、かにすきして、少ない年賀状の数に落胆して、食べ過ぎで3がにち健康がもたない云々といういかにもジャパニーズぃーな正月をすごしましたw
ですが、そろそろもどって本気モードしたいと思います。今年は、多治見のシンマチアートプラン(仮)成功という目標を中心に据えて、就職、作品、卒業、その他もろもろ全部成功させます!!
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#6
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あけまして、おめでとうございます!!!もはや2009年を迎えて4日が過ぎ去ろうとしています。

昨日、元T北ブラスバンド同好会の集まりにいって来ました☆これまでに3回くらいあって偶然毎回参加していたがために、幹事をやらされることになり、少々面倒だったし、かなりの人に迷惑かけましたw集まってくれたみんなにはホントに感謝しています。
多治見の「浪花」という居酒屋でやったのですが、とても雰囲気がよくていい感じの居酒屋で、もちろん料理もなかなかおいしくてよかったです♪ですが自分としては連日のお正月的な食べ過ぎで、あんま入らなかった感じでしまいには胃痛を起こすというかなり悲しい感じの幹事でしたw
みんな楽しかったといってくれてほんとによかったです。今度夏に集まるときはもっと多くの人を集めたいところです。

飲み会の幹事などというのは、これまであらゆる手を使ってさけてきたのですが、ちょっと今後は自分のやりたい事柄的に避けられそうもないし、まあ勉強と思って積極的にやっていきたいと思っています。
ちなみに動物占いによると僕はコアラらしいです。コアラは、企画好きで自分の身を呈してまでも周囲を盛り上げることに美徳を感じる・・・・らしいですwがんばれオレ!!!w
そして今年はがんばるぜ!!!

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